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文武両道の名将、太田道灌。川越城を築城した男が遺した足跡

「太田道灌って名前は聞いたことがあるけど、正直何をした人なのか全然知らない」「そもそも『道灌』ってどう読むの?」という人は、かなり多いのではないでしょうか。

そこで今回は、小江戸・川越の繁栄に深く寄与しているにもかかわらず、知名度的なインパクトがちょっと足りない名将・太田道灌についてお話しします。

※本記事はあくまで入門編です。太田道灌にまつわる逸話などをライトに紹介しております。


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江戸城の築城に携わった名将・太田道灌とは

Outa Doukan.jpg
出典:Wikipedia(パブリック・ドメイン)

30秒でわかる太田道灌

  • 室町時代の武将で30戦負けなし
  • 学者としても超一流。文武両道のハイスペック名将
  • 和歌の達人としても有名
  • 江戸城・川越城・岩槻城をつくった
  • 平民からは「道灌さん」と慕われていた
  • 一方、上司からは「こいつを生かしておくと、俺の立場がヤバい」と思われしまい、非業の最期を遂げた

太田道灌(どうかん)は、享徳の乱や長尾景春の乱で活躍した室町時代後期の武将です。武蔵守護代である扇谷上杉家の家宰(かさい/家長に代わって、家の中の様々なことを取りしきる役職)にあたります。

武将としても学者としても一流である」と評価されていた道灌ですが、55歳のときに扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)で暗殺されてしまいました。

この事件の真相については諸説ありますが、道灌のポテンシャルの高さと下剋上を恐れた当時の主君が、自ら暗殺計画を企てたのでは…、ともいわれています。

武将としての太田道灌

太田道灌は兵学に大変詳しく、「足軽軍法」という戦い方を考案しました。「足軽軍法」は、足軽をメインの戦力として扱う戦法です。

歴史モノのゲームにも登場する作戦名なので、太田道灌については知らなくても、この「足軽軍法」という名前だけは聞いたことがある、という方も少なくないと思います。

建築家としての太田道灌

文武両道の名将、太田道灌。川越城を築城した男が遺した足跡

父・道真(どうしん)から家督を譲られた後、道灌は入間郡に河越城(川越城)を、埼玉群に岩槻城を築城しました。
※ただし、岩槻城は、忍城主・成田正等が築城したという説もあります。

また、武蔵国には江戸城を築城。その周辺には、日枝神社や築土神社といった有名な神社を数多く造営しました。

そのため、現在でも江戸城内には「道灌濠」の名が残っています。

↓ 川越城の内部についてはこちら

太田道灌を大河ドラマの主人公に!?

「悲運の名将・太田道灌を大河ドラマの主人公に!」という推進運動が、2015年頃から全国各地で行われています。

発端となったのは、神奈川県伊勢原市での市民運動。太田道灌にゆかりのある埼玉県川越市とも連動し、2020年2月20日までに約24万件の署名を集めました。

しかし、残念ながら21年の大河ドラマのテーマは「渋沢栄一」、22年は「北条義時」に決定。

とはいえ、20年の「麒麟がくる」も、大河ドラマ実現のため福知山市が8年もかけて署名を集めたそうなので、太田道灌の署名活動もいつかはきちんと実を結ぶ可能性があります。

太田道灌を大河ドラマに!署名30万件を目指して

現在、伊勢原市と川越市は2024年の大河ドラマでの採用を目標に、署名活動等を継続しています。

18年12月には、埼玉県越生町の町長が活動組織の会長に就任。伊勢原市長と東京都荒川区長も副会長に就任しました。

19年3月の時点で、署名の数はついに20万件越え。脚本家のジェームス三木さんや、俳優の北村有起哉さんといった著名人も署名しています。

興味のある方は、↓のフォーム(太田道灌公式サイト)へ。簡単に署名することができます。

署名フォームはコチラ

色々と不安な方はこちらから >> 川越市オフィシャルサイト

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太田道灌=山吹といわれる所以は?

山吹

優れた歌人としても知られている、名将・太田道灌。彼は「山吹の花」をきっかけに、歌に関心を持つようになったといわれています。

ゲームで太田道灌を知ったという方の中には、「太田道灌=山吹」というイメージを持っている方も多いはず。この山吹は、彼の逸話である「山吹伝説」に基づいているものなのです。

太田道灌と山吹伝説

鷹狩りの最中、雨に見舞われてしまった道灌。近くの農家で蓑(みの)を借りようと思い、農家の娘に声をかけます。

ところが、娘が道灌に差し出したものは、蓑ではなく山吹の花でした。その仕打ちに道灌は怒り、蓑を借りずにそのまま帰ってしまいます。

後日、道灌は知人にこのエピソードを話しました。すると、知人はこう答えたのです。

「もしかすると、その娘は

七重八重 花は咲けども山吹の みの(蓑)ひとつだに なきぞあやしき
表の意:山吹の花は七重八重に咲くというのに、実をひとつもつけないのは不思議なことだ。
裏の意:山吹ではありませんが、お貸しできる蓑ひとつないのは心苦しいことです)

という歌になぞらえたのではないですか?」

つまり、農家の娘は「申し訳ないのですが、お貸しできる雨具がございません」という断りの意味で、道灌に山吹の花を差し出したのではないか、と言うのです。

これを聞いた道灌は、自分が歌の道に暗かったことを反省しました。その後、彼は歌について懸命に学び、日本を代表する歌人となったのです。

このエピソードを元にした落語もあります。

立川談志 『道灌』

「七重八重…」の歌は太田道灌の作ではない

「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞあやしき」
という歌は、太田道灌が詠んだものと思われがちですが、もちろんそれは誤りです。

元ネタは「後拾遺和歌集」の1154の項。作者は醍醐天皇の第十六皇子、兼明親王(かねあきらしんのう)です。

「あやしき」なのか「かなしき」なのか

「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞあやしき」

実は、この歌の最期のフレーズ「なきぞあやしき」には、「正しくは『なきぞかなしき(悲しき)』では?」という説もあるのです。

確かに江戸時代の流布本には、「かなしき」版の歌が載っています。しかし、「後拾遺和歌集」では「あやしき」となっているのです。

そのため、本やサイトによって最後のフレーズに差があるかと思いますが、いずれも同じ歌となります。

川越市内にある太田道灌スポットをめぐろう

川越の市街地には、太田道灌ゆかりのスポットがたくさんあります。メインの観光エリアからもあまり離れていないので、興味のある方はぜひ足を運んでみてくださいね!

川越市役所前の太田道灌像

川越市役所前には太田道灌の像が建っています。

しかし、この像について触れているガイドブックはほとんどありません。また、川越市民ですら、その存在を認識しているのかどうなのか…。

私がこの写真を撮っている時、周囲の人たちから「何でこの人、像を撮ってるんだろう?変なの!」という目で見られてしまいました。

道灌像の道灌は、鷹狩りスタイルの出で立ちです。注目ポイントは右手。

しっかりと山吹の枝が握られていますね!

川越市役所へのアクセス

ここから東へ歩くと川越城本丸御殿へ行けます。

まだまだある!全国の太田道灌像

太田道灌の像は川越市以外にも存在します。

  • 東京の日暮里駅前
  • 東京国際フォーラムのガラス棟
  • 埼玉県さいたま市岩槻区役所前
  • 芳林寺敷地内
  • 越生町の龍穏寺

また、銅像以外にも、神奈川県伊勢原市には首塚や胴塚が、越生町の龍穏寺には分骨した太田道灌墓、神奈川県鎌倉市には供養塔が残っています。

太田道灌にちなんだ川越の老舗和菓子店「道灌」

市役所から川越城方面へしばらく歩いたところにある和菓子屋、「道灌」。大正10年創業の老舗店です。

川越の和菓子屋と言えば亀屋というイメージがありますが、「道灌」も負けていません。

左から「丁稚芋」、「道灌まんじゅう」、「芋クリームどら焼き」。いずれも道灌のおすすめ商品です。

丁稚芋は川越芋の甘露煮を漉して餡状にした、羊羹のようなお菓子。あっさりとした甘さで食べやすいです。

川越の桜の名所、道灌橋

道灌橋

菓子屋横丁からしばらく歩いたところに、「道灌橋」という小さな橋があります。

きれいな桜が見られることでも知られていますが、ここで注目すべきは橋の欄干です。「七重八重…」の山吹の歌が書かれています。

道灌橋の場所

かつてこの周辺に太田道灌の屋敷があったそうですが、現在は存在しません。

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富築

富築

埼玉県と美味しいもの・可愛いものが大好きなwebライター。川越在住。
蔵の町周辺をよくぶらついています。
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