「川越大師」として市民に親しまれている喜多院。今回は、喜多院と喜多院にまつわる七不思議の謎に迫ります。(文献によって諸説あり)
目次
川越大師喜多院に伝わる伝説の七不思議の謎
気の遠くなる程、長い歴史を刻んできた喜多院。
そんな喜多院には、古くから語り継がれてきた「七不思議」があるのです。
七不思議スポットは境内だけではありません。
喜多院からちょっと離れた意外な場所にも点在しています。
喜多院の施設情報や歴史についてはこちら↓
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七不思議① 山内禁鈴
「喜多院の境内では、鈴を鳴らしてはいけない」という伝説です。
昔々、喜多院に現れた1人の美女が、和尚さんにこんなお願い事をしました。
「今日から100日間、お寺の鐘を撞かないと約束してください。もし約束を果たしてくれたら、この鐘をもっと立派な音色にしてさしあげます」
その様子があまりにも熱心だったため、和尚さんはお願いを承諾します。
鐘を撞かなくなってから99日目。
今度は物静かで麗しい女性が喜多院を訪れ、和尚さんにこう告げました。
「今夜一夜だけでも構いません。どうか寺の鐘をお撞きになって、私に音色を聞かせてください」
女性の気高い雰囲気に魅せられた和尚さんは申し出を断ることができず、言われるがまま鐘を撞いてしまいました。
すると、和尚の目の前にいた女性はみるみるうちに大きな竜へと姿を変え、雲を呼び、風を起こし、和尚さんを天高く吹き飛ばしてしまったのです。
和尚さんは嵐の中で独楽の様に99回も回された挙句、どうにか着地。
この事件が起きて以来、喜多院では鐘を撞くことが禁止されました。
現在は正安二年の銅鐘のみ、年に一度だけ除夜の鐘として撞かれています。
七不思議② 三位稲荷
喜多院には、一般の参拝客が絶対に辿り着くことのできないお堂「三位(さんみ)稲荷」が存在します。
喜多院の外側から撮影。
このフェンスの向こう側に、ちょうど三位稲荷があるはずなのですが…。
三位稲荷の伝説
昔々、喜多院には実海僧正というとても徳の高い住職がいました。
ある日のこと、実海僧正がお経を読んでいると、体が天高く舞い上がり、あっという間に群馬県の妙義山まで飛んでいってしまったのです。
実海僧正の弟子・三位は大慌て。
「私も後を追いかけなくては!」と、味噌を擦っていたすりこぎをほっぽり出し、近くにあったほうきを持って飛び上がります。
しかし、三位の法力では十分に飛ぶことができず、お寺の庭に落ちて亡くなってしまいました。
師を慕って命を落とした三位。
実海僧正は彼をたいそう哀れに思い、三位の亡くなった場所に祠を建て、「三位稲荷」として祀りました。
そして、この一件以来、喜多院には
- すりこぎとすり鉢、ほうきは遠く離れた場所に置くこと
- ほうきは逆さに置くこと(逆さぼうき)
という規則が設けられることに。
これを破ると、必ず何らかの災いが起こるといわれています。
七不思議③ 明星杉と明星池
明星駐車場の隣にある史跡にまつわる伝説です。
この地域に「明星」という名が多い由縁 明星杉と明星池の伝説
永仁4年(1296年)。
仏法を広めるため、尊海僧正は牛車に乗って仙波の地(現在、喜多院が建っている場所)を訪れました。
ところが、橋の前で牛が急に立ち止まってしまいます。
尊海は「この場所には何かあるに違いない」と考え、仙波の地に留まることにしました。
すると、その晩、近くにあった池の中から不思議な光が浮かび上がってきたのです。
その光はあっという間に空高く舞い上がり、明星となりました。
そして、古い杉の上にとまり、キラキラと輝き始めたのです。
尊海は「この地こそ霊地に違いない」と考え、ここにお堂(喜多院)を建て、仏法を広めるための拠点としました。
この事から、喜多院の山号が「星野山(せいやさん)」となり、この地に「明星(みょうじょう)」という字名が付いたといわれています。
七不思議④ 竜の池弁天(双子池)
「竜の池弁天」は喜多院から約1km、小仙波町にある小さな池です。
喜多院からはかなり離れているのですが、実はこの場所も喜多院の伝説に深く関係しています。
竜の池弁天に立っている石柱。
しっかりと「喜多院」の文字が彫られていることからも、喜多院に縁のある土地であることがわかります。
かつて仙波は海だった
竜の池弁天の伝説について知る前に、まずは予備知識を仕入れておきましょう。
今から7千年~8千年前の縄文時代、当時の川越は東京湾に面していたといわれています。
海が引き始めたのは、縄文時代中期以降。
縄文時代の後期には、現在の東京湾の辺りまで後退していたと考えられています。
川越に海があったことを示す遺跡 小仙波貝塚
埼玉県といえば「海無し県」で有名ですし、「川越に海があった」だなんて、にわかには信じられませんよね。
ところが、それを裏付ける遺跡が存在するのです。
それが小仙波貝塚。約6千年前の貝塚跡です。
小仙波貝塚は住宅街の隙間にあります。
何も知らなければ「何か狭い空き地があるな。休憩所かな」と思って通り過ぎてしまうくらい、こじんまりとした遺跡です。
竜の池弁天(双子池)の伝説
はるか昔、まだ川越が海に面していた時代のことです。
仙芳仙人はこの地に神聖な力を感じ、お寺を建てようと考えました。
しかし、一面に広がる海が邪魔をして、思うようにお寺を建てることができません。
仙人は頭を抱えてしまいました。
そんなある日、仙人の前に竜神の化身を名乗る老人が現れます。
仙人は、「私の袈裟が広がった分の土地を、陸地としていただきたい」とお願いしました。
竜神はそれを承諾。
さっそく仙人は袈裟を海の上に広げました。
すると、袈裟は数十里の大きさに広がったのです。(1里=3.9km)
予想外の事態に竜神は焦り、仙人に交渉を持ちかけます。
「これでは私の住む所が無くなってしまう。小さな池だけでも残して欲しい」
仙人は池を残すことを約束しました。
そして、土仏を作り、海に放ると、あっという間に海水が退いて陸地が現れたのです。
仙人は竜神のために、池の脇に弁財天を祀りました。
これが「竜の池弁天」の起源です。
七不思議⑤ 日枝神社「底なしの穴」
喜多院のお向かいにある日枝(ひえ)神社(東京都千代田区赤坂にある日枝神社の本社)に伝わる伝説です。
一見、喜多院とは関係がないように思えますが、実はこの「底なしの穴」は竜の池弁天に繋がっているといわれています。
日枝神社と喜多院の関係
慈覚大師円仁が喜多院を再興する際に、滋賀県大津市の日吉大社を勧請(かんじょう)したのが、日枝神社の始まりであるといわれています。(勧請:神様を自分たちの土地へ招き、その魂を分けてもらうこと。)
しかし、本殿には様々な時代の建築技術が見られるため、実は日枝神社は喜多院の再興前から建造されていたのではないか、との説もあります。
室町時代末期~江戸時代初期の華やかな朱塗りが施されている本殿。
国の重要文化財です。
日枝神社へのアクセス
「底なしの穴」の伝説
底なしの穴があった形跡は、今も境内の片隅に遺されています。
昔々、日枝神社には「底なしの穴」と呼ばれる深い穴が空いていました。
ある日、「この穴はいかほど深いのか」と疑問に思った村人たちは、試しに鍋や下駄などを穴に投げ込んでみました。
しかし、いつまで経っても底に落ちた音がしません。
村人たちが訝しげに穴の中を覗き込んでいると、500mほど離れている「竜の池弁天」の方から人がやって来ました。
そして、こんな事を言い出したのです。
「池に鍋とか下駄とか、色んな物がたくさん浮いているぞ!」
村人たちは竜の池弁天へ急ぎました。
すると、そこには底なしの穴に投げ入れたはずの鍋や下駄が浮いていたのです!
江戸時代には「底なしの穴」の内部が調査された
時は流れ、享保19年(1734年)。
川越藩の普請奉行が本堂の修理のために穴の内部を調査したところ、4本の横穴が東・西・北・北西の4方向にのびていることが分かりました。
寺との話し合いの結果、「この穴は昔、竜を閉じ込めるために作った穴に違いない」という結論に至り、それ以上の調査は行われなかったそうです。
七不思議⑥ 琵琶橋
琵琶橋は、国道254号線と県道16号線が交わる場所付近にある小さな橋です。
ピンのある橋が「琵琶橋」で、そのすぐ北にある大きな橋は「新琵琶橋」と呼ばれています。
仙波琵琶橋の伝説
ある日、尊海僧正は弟子と共に喜多院へ帰る途中、道に迷ってしまいました。
あちこちと歩き回っている内に、一行はある小川に辿り着きます。
ところが困ったことに、小川には橋が架かっていないため、渡ることができません。
その時、どこからともなく琵琶法師が現れました。
弟子達は法師に事情を話し、道を尋ねます。
すると、法師は「私が橋を作りましょう」と言うやいなや、持っていた琵琶を川に浮かべました。
琵琶は見る見るうちに姿を変え、立派な橋になったのです。
僧正一行はその橋を渡り、無事に喜多院へ帰ることができました。
数年後、法師が琵琶を浮かべた場所に橋が架けられました。
この逸話から、その橋は「仙波琵琶橋」と呼ばれるようになったそうです。
七不思議⑦ 榎の木稲荷(三変稲荷)
住宅街の一角にある小さな神社です。
榎木の上の白狐伝説
昔々、喜多院には化け上手な白狐が長い間住み着いていました。
しかしある日、とうとう正体を見破られてしまい、お暇を出されてしまいます。
そこで、白狐はお礼と称して、尊海僧正に「仏教の祖である釈迦が布教をしている姿をお見せいたします。ただし、私が化けている間は一言たりとも声を出してはいけません」と言いました。
尊海は「それはありがたいことだ」と、かたく約束します。
ところが、いざ白狐が釈迦に姿を変えて布教の様を再現し始めると、尊海はいたく感動してしまいました。
そして、思わず「ありがたや、南無阿弥陀仏」と声を出してしまったのです。
その途端、釈迦は姿を消しました。
榎木に登って化けていた白狐の変身が解けてしまったのです。
さらに、狐は木から落ち、命を落としてしまいました。
尊海は白狐を哀れみ、狐が登っていた榎木の下に亡骸を祀りました。
その場所が、現在「榎の木稲荷」のある場所です。