東武東上線「霞ヶ関駅」から徒歩15分、蔵造りの町から車で15分ほどの場所にある河越館跡史跡公園。かつてこの場所には、武蔵国で勢力を誇っていた武士、河越氏の居館があったといわれています。
目次
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国指定史跡河越館跡(かわごえやかたあと)とは
「河越館跡」は、かつて武蔵国で最大の勢力をふるっていたとされる河越氏の居館跡です。河越氏は、平安時代から南北朝時代にかけて活躍していたといわれています。
河越館跡は昭和59年12月6日に国指定史跡となり、平成21年には「館跡の恒久的な保存」と「地域の人々の憩いの場」を目的とした史跡公園として整備されました。
史跡整備は発掘や調査の成果に応じて段階的に進めることになっており、まだ途中段階にあります。
河越館跡で開催される河越流鏑馬(かわごえやぶさめ)
河越館跡では毎年1回、鎌倉時代に盛んだったという流鏑馬行事が行われます。
本格的な流鏑馬をこの至近距離で見られるのはかなり貴重なチャンス!
会場内での写真撮影は可能ですが、馬を刺激してしまうため、フラッシュの使用はNGです。
2024年度の開催日程
11月9日(土)12時~16時頃
※流鏑馬行事は13時30分~14時30分
民俗芸能や乗馬体験も実施予定。
臨時駐車場が開設されますが、数に限りがあります。できるだけ公共交通機関を利用してください。
河越館の現役時代のイメージ図
上の絵は、発掘調査の結果と当時の絵画資料などを元に描かれた川越館のイメージ図です。
方角が分かりにくいのですが、上が西で下が東、右が北で左が南になっています。東側にある水域は入間川です。
(1)の塀に囲まれた区画は、掘立て柱建物(2)や井戸(3)、塚(4)などがあることから、河越氏の屋敷区画の一部だったと考えられています。
また、道を挟んだ向かい側にある(7)の区画には墓域が、(8)のスペースにも何らかの区画があったそうです。
発掘調査では、主屋となる建物は見つかっていません。しかし、入間川寄りの場所に遺構や遺物の集中する場所(9)があったと想定されています。
南側にある建物(10)は、河越氏の持仏堂から発展した常楽寺です。
河越氏の衰退後も使われ続けていた河越館
当時、入間川は水運において重要な役割を果たしていました。
また、西方にも鎌倉街道が通っていたことから、河越館は水陸の交通の要衝としても機能していたとされています。
そのため、この場所には様々な物資や情報が集まりやすく、河越氏が衰退した後も、寺域や戦の陣所として利用され続けました。
河越氏とは
「河越氏」の家系について、簡単にまとめてみました。
- 桓武平氏(かんむへいし)流の秩父氏を祖とする名族。
- 平安時代末期~南北朝時代まで活躍していた。
- 平氏・源氏・北条氏・足利氏と仲が良かった。
- 最盛期には、河越重頼の娘が源義経の正妻に選ばれた(郷御前)。
- 鎌倉時代の中期まで、留守所惣検校職(るすどころそうけんぎょうし)という在庁職を認められていた。
早い話が、「娘を源義経の正妻にできるくらい、力を持っている家だった」ということです。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』にも、
頼朝の仰せにより重頼の息女が義経に嫁ぐ為に三十数名の家臣ともに上洛
と記されています。
そんな有力武士だった河越氏ですが、1368年(応安元年)、平一揆を組織したことをきっかけに幕府と対立。
河越館での戦に敗れ、表舞台から姿を消してしまったのです。
その後、館のあった土地は常楽寺(じょうらくじ)の寺域となりました。
郷・良子・京姫…「河越重頼の娘」の名前はどれが正しい?
一般的には、「義経の正妻は郷御前」といわれていますが、この「郷御前」という名前は伝承上の仮の呼び名に過ぎません。
彼女の本名は今でも不明のままで、実は作品や地域によって呼称が異なるのです。
- 彼女の故郷である河越(川越):「京姫」
- 平泉:「北の方」
最も有名な「郷」という名前は、篠綾子さんの「義経と郷姫」に登場します。
ちなみに、2005年に放送された滝沢秀明さん主演・宮尾登美子さん原作の「義経」では、「良子」という名で呼ばれていました。
河越氏から大道寺氏へ… 河越館跡の歴史
河越館跡が辿ってきた歴史は、大きく4つの時代に分けられます。
1期:河越氏の時代(12世紀後半~1368年)
河越氏が武蔵国で勢力をふるっていた時代です。発掘調査時に、この時代の生活用品や陶器などが発掘されています。
発掘されたものの一部
- 儀式や酒宴で使い捨てにされた素焼きの器「かわらけ」
- 中国から輸入された青白磁の梅瓶(めいぴん)
- 平一揆の兵火によるものと思われる、火を受けた跡が残る軒丸瓦(のきまるがわら)
- 磁器
2期:常楽寺の時代(14世紀後半~15世紀後半)
河越館跡史跡公園の一角にある常楽寺。河越氏の持仏堂が発展したものとされており、河越氏の衰退後にその寺域を広げました。
史跡公園として未整備の区域で、板碑や石塔、茶道具、仏具などのほか、多くの遺構も検出されています。
3期:山内(やまのうち)上杉氏の時代(15世紀末~1505年)
扇谷(おうぎがや)上杉氏の居城だった川越城を攻略するため、山内上杉氏(顕定~憲房の辺り)が陣所を構えていた時代です。
山内上杉氏関連の遺跡でよく見られる、「山内かわらけ」も数多く出土しています。
この時代の遺構は特に多く残っており、大きな掘や方形竪穴(ほうけいたてあな)なども検出されていることから、陣所設置のため常楽寺の寺域を整理する際、堀や井戸に板碑などを破棄したのではないかと考えられているようです。
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4期:大道寺(だいどうじ)氏の時代(16世紀中期~1590年)
4期以降は遺構や遺物が少なく、また文献資料もほとんど残っていないため、発掘調査だけではこの時期の状況を明らかにすることは難しいとされています。
しかし、河越城を拠点としていた小田原北条氏の重臣、大道寺政繋の墓所が常楽寺内にあることから、「大道寺氏が陣所としてこの場所を整備したのでは」という説があるようです。
河越館跡史跡公園内を散策
河越館跡史跡公園は、整備済み区域と未整備区域の2つに分かれています。
未整備区域の入り口。公園内は広々としていて木以外の障害物もほとんどないため、子どもや犬が駆け回っていました。
このまま道に沿って歩いていくと、整備済み区域への入り口に着きます。右手側に見える建物が常楽寺です。
整備済み区域の入り口。
公園内には東屋やベンチ、トイレなどがあります。広場でお弁当を食べたり運動したりと、のびのびと過ごしている人が多かったです。
河越茶のある入り口も
川越市立上戸小学校側の入り口には、河越茶(現在の狭山茶)が植わっています。
河越茶が初めて文献に登場したのは南北朝時代(14世紀中頃)のこと。この時代に成立したとされる「異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)」に、河越茶に関する記載があります。
同書は南北朝時代の初学者向けの教科書で、「武蔵河越」は全国の銘茶5場のひとつとして取り上げられました。
河越館跡では、茶臼や風炉といった茶道具が発掘されています。そのため、「館でもよく茶を飲んでいたのでは」と考えられているようです。
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公園内で見られる2つの時代の堀跡
河越館跡には、主に2つの時代の堀跡が残っています。
1つは13世紀頃につくられた河越氏時代の堀(上は堀8号跡)、そしてもう一方は15世紀末~16世紀初頭頃につくられた山内上杉氏時代のもの(堀23・26・27・28号跡)です。
整備時には2つの堀を区別するため、山内上杉氏時代の堀跡が舗装されました。
この8号堀跡はとても長く、昔は上戸小学校の敷地内にまで続いていたそうです。
堀の外周にある4~5メートル幅の道路跡。それぞれの区画の間を道路で連結するのが、河越館の空間利用の特色だったとされています。
上の堀から少し離れたところにある堀1号跡。13世紀頃、河越氏の時代につくられたものと考えられています。
何の変哲もない写真に見えますが、かつてこの場所には、16世紀頃に造られた堀が重なって存在していたそうです。
下の画像は堀跡の断面図。
拡張工事や掘り直しを何度も行った痕跡が残っていたことから、上の図のように堀が何層にも重複していたのではないかと考えられています。
まるで東京都内の複雑な地下鉄のようです。
そのため、この場所については、河越氏時代に造られた堀跡(8号堀跡)はわずかな痕跡を残すのみで、確認できないものも少なくありません。
しかし裏を返せば、河越氏の衰退後もこの土地が大いに活用されていたという証でもあります。
塚状遺構(39号溝跡)
発掘調査によると、この場所には深さ1.3メートルほどの溝が正方形を描くように並んでおり、溝の中からは10~20センチ程度の礫が見つかったそうです。
その中には、蔵骨器として使われていたと思われる壺や捏ね鉢もあったことから、ここは盛り土に礫を葺いた塚状の遺構だったのではとされています。
発掘された時には、すでに盛り土が削られ平らになっていたため、塚の上に何が置かれていたのか、そもそも物が置かれていたのかどうかすら、今となっては分かりません。
しかし、この場所が屋敷の隅にあたるということを考慮すると、先祖を祀る霊廟や納骨堂といった、宗教的な要素を持った何らかの施設だったのではないかとする説が有力です。
また、出土した遺物に時代的な幅があることから、長い期間にわたり追葬などが行われていたものと見られています。
井戸跡
13世紀後半~14世紀頃に造られたという井戸。
当時、武蔵国では素掘りの井戸が主流で、この井戸のように板材を組み合わせてつくられたものは希だったそうです。
井戸跡の内側。当たり前ですが、中は埋め立てられていました。
建物跡
8号堀区画で見つかった唯一の建物跡。13世紀後半~14世紀頃につくられたものと考えられています。
整備時に柱の位置にプレートが敷かれ、壁のラインはコンクリートによって固められました。
「東西に長い建物だったのでは?」と考えられていますが、そのほとんどが上戸小学校の敷地内(フェンスの向こう側)へと続くため、正確な規模は不明です。
8号堀区画の中央付近に位置するこの建物は、
- 屋根を支える柱の間に床板を支える束柱(つかばしら)を持っている
- 柱を安定させるため、柱穴に根石(ねいし)を使っている
ということから、この区画の中心的な建物であった可能性があります。
河越重頼の供養塔は常楽寺に、墓所は養寿院に
河越館跡史跡公園の一角にある常楽寺には、河越重頼・源義経・京姫(郷御前)の供養塔があります。
重頼の供養塔がある常楽寺
もともとは河越館の持仏堂だった常楽寺。「常楽寺」と名を改めたのは鎌倉時代のことです。
とても大きな本堂。
本堂の一部に「河越山」の文字が。
2006年11月19日に建てられた、河越太郎重頼・京姫・源義経の三供養塔。(中央:重頼、右:義経、左:京姫)
この塔は、悲運の生涯を終えた義経とその正室・京姫(郷御前)、そして京姫の父で有力な板東武者だった河越太郎重頼を偲びつくられたものです。
かつて川越には京姫を供養する「京塚」がありましたが、宅地開発により潰されてしまいました。
その後、NHKの大河ドラマ「義経」が放送されたことや、2006年が重頼没後820年であったことなどから、供養塔建立の話が持ち上がったそうです。
除幕式当日には、『義経正室「京姫」里帰り810年祭』が開催され、3人に扮した仮装行列が練り歩きました。
常楽寺へのアクセス
- 東武東上線「霞ヶ関駅」北口 徒歩約12分
- JR川越線「西川越駅」から川越シャトル(13系統)乗車、「上戸」下車 徒歩約4分
重頼の墓がある養寿院
ガイドブックなどではあまり取り上げられませんが、菓子屋横丁のそばにある曹洞宗の立派なお寺です。
重頼の墓は本堂の脇を奥に進んだ先にあります。
源頼朝から疎まれ、圧力をかけられていた義経と京姫。
この2人が娘と共に自刃したことはよく知られていますが、実は重頼も「義経の正妻である京姫の父親だから」という理由で領地を没収され、死罪となっています。
養寿院へのアクセス
- 西武新宿線「本川越駅」 徒歩15分
- 東武東上線「川越駅」西口・西武新宿線「本川越駅」からバス乗車、「蔵の街」(小江戸巡回バス)もしくは「一番街」(東武バス・小江戸名所めぐりバス)下車 徒歩3分
河越館跡史跡公園へのアクセス
東武東上線「霞ヶ関駅」より徒歩14分。
東武東上線「鶴ヶ島駅」北口・JR川越線「西川越駅」から川越シャトルバス(13系統)「上戸」下車 徒歩6分。
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