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川越の由来は「川を越えるから」って本当?「河越」との違いは?

投稿日:2018年1月21日 更新日:

その土地の地名には何らかの意味や由来があるものです。そこで今回は、いかにも由来がありそうな「川越」という地名について、なぜこのような名前になったのか、また漢字違いで「河越」と表記されるケースもあるのはなぜなのか、歴史書などを参考に考察してみました。

諸説ある「川越」の由来

川越が「川越」と呼ばれるようになった由縁には、主に3つの説があります。

説1. 坂東武士「河越氏」の名前から

かつて川越地方を仕切っていた武蔵武士、「河越氏」の名前から取ったという説です。
この説が最も有力で、川越市が発表している「川越市歴史的風致維持向上計画」にも次のような記載があります。

川越市の名称は、12世紀後半、現在の川越市上戸・鯨井地域に居館を構えた河越氏を由来とする。

(引用:【分割】川越市歴史的風致維持向上計画(第2章)『2 「物資の集散」にみる歴史的風致』

市が公に発表している以上、恐らくこれが正解なのでしょう。

ただ、元を辿れば河越氏は「秩父氏」の一族ですし、彼らが「河越氏」を名乗るようになったのは、現在の川越市上戸へ移った時からです。

では、河越氏の姓である「河越」は一体どこから来たのでしょうか?

この点について、川越地方の研究をしていた岡村一郎氏は、著書「川越歴史小話」の中で次のように述べています。

恐らく河越荘が成立する以前、入間川西岸の上戸辺にカワゴエと称する聚落があって、それが後に荘園に発達し、その荘司が河越氏を唱えるようになったのが自然の経過であろう。

(引用:「川越歴史小話」 (川越歴史新書〈5〉)

また、歴史学者・関幸彦氏も著書「義経の時代一〇〇人」の中で、河越氏の氏について触れています。

河越氏は秩父氏の一族で、秩父重綱(しげつな)の二男重隆(しげたか)が武蔵国河越庄の荘司(しょうじ)に就いたことから河越を称した。

(引用:「義経の時代一〇〇人」

つまり、もともと「河越」と呼ばれていた集落に秩父氏が移り住んだことにより、「河越」が一定規模以上の私有地へと発展、その土地の長である人間(重隆)が「河越氏」を名乗るようになったのではないでしょうか。

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説2. 「川(河)を越えるから」

三重県の川越町や、静岡県静岡市の川越町など、全国には「カワゴエ」と呼ばれる地域がたくさん存在します。
また、現在は地名が変わっていますが、大阪府や島根県、山口県には川越村という村があったといわれています。
注目すべきは、それらの土地のほとんどが川の近くにあるという点です。


例1)静岡県静岡市川越町


例2)三重県川越町

古来から水運によって栄えてきた埼玉県川越市。
特に、河越氏の居館である河越館のそばには入間川が流れており、近くには鎌倉街道も通っていました。
そのため、川越という地は交通の便が非常に優れていたそうです。


川越館の立地

しかしその反面、入間川に周囲を囲まれていた川越の市街地は、「入間川を越えないと辿りつけない場所」でもありました。
このことから、「川越(河越)」と呼ばれるようになったといわれています。

また余談ですが、川越市の隣の町「川島町」は、「川に囲まれて島のようになっている」ことから、この名前がついたとされています。


川島町の立地

説3. 「河が氾濫して、土地が肥沃になったから」?文化財や歴史書には「河肥」という表記も

鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」の中には、「河肥庄」という表記が何か所かに見られます。
また、川越市内にある養寿院(ようじゅいん)の鐘銘にも、「武蔵国河肥庄 新日吉山王宮」と記載されています。
この鐘が奉納されたのは文応元年(1260年)11月22日、つまり鎌倉時代中期頃のことです。

これらのことから、「河の氾濫によって土地が肥えたことから『河肥』と呼ばれていたのではないか」とする説もあるのですが、岡村氏は次のように考察しています。

これは必ず「新日吉領武蔵国河肥庄」というふうに河肥庄が新日吉山王の社領であることを示した場合だけに用いられている。社領を謳わないときはたんに「武蔵国河越庄」と書いて肥の字を使っていない。

(中略)

吾妻鏡でもただ川越の地名や河越氏の姓を記す場合は、いつでも越の字を使っていて肥は用いていない。

(中略)

私の考えではこれは後白河上皇が永暦元年(1160)京都東山に創建した新日吉社に河越庄を寄進したときの荘園寄進文に、嘉字を尊ぶ習慣から越の代りに肥を当てたのではないかと思っている。

(引用:「川越歴史小話」 (川越歴史新書〈5〉)

つまり、「河肥」という表記は新日吉(いまひえ)山王の社領に関連するものだけに見られる表記であり、その他のものについては「河越」で統一されているのです。
その理由として考えられるのが、当時の「地名には嘉字(意味や音、縁起の良い文字)を使う」という習わし。
その風習に則って、特殊なシチュエーションに限り、「河を越える」ではなく「河によって(土地が)肥える」という、ちょっとリッチな意味を持つ漢字を使ったものと考えられます。

混在する「川越」と「河越」、使い分けのルールは?

「河越茶」「川越城(河越城)」「河越夜戦」「川越大火」「川越駅」・・・。
現代でも「川越」・「河越」という表記は様々な場面で登場します。

これら2つの表記は、どのように使い分けるべきなのでしょうか。

吾妻鏡にやはり河肥庄と記したものが数ヵ所みられる。

(中略)

「前太平記」には河越氏発祥の頃からの記述がみえて、内容的には吾妻鏡より古いが、編述はずっと後のことであるから、河越もしくは川越と書いており、肥の字は見当らない。これ以後のものでは「永享記」「廻国雑記」は河越、「鎌倉大草紙」「関東合戦記」「北条記」は河越、川越の両者を使用している。

(引用:「川越歴史小話」 (川越歴史新書〈5〉)

また、江戸時代(寛永2年以前)には、「川越索麺(川越素麺)」という川越の地誌も成立しました。
(ここから読めます → 国立国会図書館デジタルコレクション

それぞれの書物とその作品が書かれた時代を照らし合わせると、以下のような規則性が浮かび上がります。

  • 鎌倉時代は「河越」表記がメジャーだった。(ただし、特殊なシチュエーションに限り「河肥」を使っていた。)
  • 室町時代には「河越」「川越」の両方を使っていた。
  • 江戸時代になると、「川越」の方がメジャーになった。

では次に、章の頭に登場した「河越茶」「川越城(河越城)」「河越夜戦」「川越大火」「川越駅」ができた(起きた)時代を確認してみましょう。

ワード時代
河越茶鎌倉時代
川越城(河越城とも)長禄元年(室町時代)
河越夜戦天文15年(室町時代)
川越大火寛永15年(江戸時代)
川越大火明治26年
川越駅昭和15年

このようにまとめてみると、「川越」「河越」の表記は、それぞれのワードが初めて発生した時代のルールに従っていることが分かります。

ちなみに、公益社団法人 日本河川協会は、「河」と「川」の使い分けについて次のように回答しています。

まず「川」を「河」と表記するのは中国だけのようです。しかも同じ中国でも北部は「河」(例:黄河)で南部は「江」(例:長江)と言うように変わるようです。

(引用:日本河川協会「河と川の使い分けについて」

このような文化的背景も影響し、時代を経るに従って少しずつ、「河越」表記から「川越」へとシフトしていったのではないでしょうか。

 

「川越」という地名の由来は諸説あり、「この説が絶対に正しい」と断言することはできません。
ただ、川越市が出している文書には「河越氏が由来である」と明記されているため、誰かに質問されたり、テストで出題されたりした時は、そのように回答しておけば問題ないでしょう。

ちなみに私は、

現在の上戸が「川(河)を越えるから」という理由で「河越」と呼ばれていた。

秩父氏が河越に移り住み、河越氏を名乗るようになる。

河越氏がメキメキと勢力を伸ばす。

河越という名前が地域に根ざす。

現在の川越という地名に繋がる

と考えています。

  • この記事を書いた人

富築(水先)

埼玉県と美味しいもの・可愛いものが大好きなwebライター。川越在住。
蔵の町周辺をよくぶらついています。
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