日本三大奇襲戦・河越夜戦とは|河越城の戦いを図でゆるく解説

「日本三大奇襲(日本三大夜戦)」のひとつである「河越夜戦」。

戦国時代、河越城の争奪をめぐり約半年間ずるずると続いた「河越城の戦い」は、この河越夜戦により、たった一晩で形勢逆転し勝敗が決まりました。

本記事では河越夜戦の顛末を図付きでゆるーく解説。かつて河越夜戦の激戦地だった東明寺にもフォーカスを当てます。


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3分で分かる!河越夜戦(かわごえよいくさ/やせん)とは

教科書には登場しませんが、河越夜戦は「日本三大奇襲」(日本三大夜戦)のひとつに数えられている特異奇抜な合戦です。

なぜそのような扱いを受けているのかというと……。

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開戦時、こんな状況だったにもかかわらず、最終的に河越城にいた北条氏が勝利したからです!

この絶体絶命な状況で北条氏がどのようにして勝利をつかんだのかは、後ほど詳しく解説します。

日本三大奇襲(にほんさんだいきしゅう)とは

日本三大奇襲のうち2つの合戦は、教科書にも登場する有名なものです。

  • 河越夜戦(河越城の戦い)
    ・1546年10月31日
    ・北条氏康 VS 上杉憲政・上杉朝定・古河公方など
  • 厳島の戦い
    ・1555年10月16日
    ・毛利元就 VS 陶晴賢
  • 桶狭間の戦い
    ・1560年6月5日
    ・織田信長 VS 今川義元

特に有名なのは桶狭間の戦いですよね。この戦いでは織田信長が勝利し、今川義元が討死。今川家の弱体化へと繋がりました。

ちなみに、厳島の戦いの舞台となった宮島の観光協会のHPにも「日本三奇襲戦」の解説が載っているのですが、そこに河越夜戦は登場しません。

日本三奇襲戦は、厳島の戦い・桶狭間の戦い・「源義経の鵯越(ひよどりごえ)の戦い」ということになっています。

なぜ武将たちは川越を取り合ったのか

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川越城(河越城)本丸御殿

河越夜戦(河越城の戦い)では、上杉憲政・上杉朝定・古河公方などによる連合軍と北条氏康が河越城を取り合って争いました。戦いの舞台は河越城周辺(現在の川越市内)です。

川越の争奪戦が起きた理由について、大阪毎日新聞社学芸部著「古戦場往来」では以下のように解説しています。

川越は当時の関東管領上杉氏の地盤である上野、越後方面と鎌倉とを結ぶ交通の要地だったからである。この要衝なるがゆえに武蔵野は戦雲を呼び川越城はまさに一戦あるべき地となった。

(引用:大阪毎日新聞社学芸部「古戦場往来」)

鎌倉街道がある上に水運にも強かった川越は、当時、水陸の交通の要衝として機能していました。

そのため、物資や情報などが集まりやすく、政治においてとても重要な拠点であると考えられていたようです。

河越夜戦(河越城の戦い)の経緯をゆるーく解説

河越夜戦はまさに耐久戦でした。それゆえに、歴史を真面目に追っていると非常に退屈です。

ここでは主な出来事をかいつまんでライトに解説していきます。

河越城の戦いが起きたきっかけ

室町時代後期頃、上杉氏は管領(かんれい)という超重要な役職を世襲で務めていました。

管領は室町幕府において将軍に次ぐ最高の役職です。その影響力は非常に強く、いつしか管領・上杉氏の立場は、古河公方(こがくぼう/公方=幕府・将軍)をしのぐほどになっていました。

これは現代的に言えば、超優秀な社員が、いつの間にか社長以上の発言力を持つようになってしまった状態です。

そのため、管領・上杉氏(超優秀な社員)と古河公方(社長)は対立します(=享徳の乱)。

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管領・上杉氏 VS 古河公方の争いは28年にも及びました。

想定外だったのが、この戦いを通じて、管領・上杉氏の分家にあたる扇谷上杉氏が頭角を現してきたことです。

管領・上杉氏にとって扇谷上杉氏は、どんどん邪魔な存在になっていきました。

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こうして、古河公方 VS 管領・上杉氏 VS 扇谷上杉氏の長~いいがみ合いが始まります(=長享の乱)。

彗星のごとく現れた北条家

3家の膠着状態が続く裏で、北条氏は破竹の勢いで勢力を伸ばしていました。

そんな北条氏は武蔵の超重要拠点で扇谷上杉氏の居城である河越城にも攻撃を仕掛けます。

その結果、扇谷上杉氏はあっという間に虫の息に……。河越城まで北条氏に取られてしまいました。

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ところが、北条氏の代替わりによって、またしても状況が一変。

当時、まわりからちょっと舐められていた氏康(うじやす)くんが家督を継いだことで、古河公方管領・上杉氏扇谷上杉氏の3家は「これ、みんなで力合わせたら北条氏倒せちゃうんじゃない!?扇谷上杉氏も河越城取り返せるかもよ?」と結託します。

氏康くんは後に「猛将」「智将」「名将」などと呼ばれる、ポテンシャル満載の男です。

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古河公方管領・上杉氏は己のネームバリューを活かし、さっそく約8万の兵を招集。河越城を包囲します。

河越城の戦いスタート!

古河公方管領・上杉氏扇谷上杉氏による連合包囲軍には、関東のほぼ全大名家が参加したといわれています。加わらなかったのは下総の千葉利胤(ちば としたね)氏だけだったそうです。

対する河越城サイドは、氏康くんと同い年で仲良しの北条綱成(つなしげ/つななり)氏が、たった3千人で守りを固める羽目に。

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8万 VS 3千。まさに絶体絶命、多勢に無勢。もはやいじめレベルです。

綱成氏は河越城に籠城することにしました。連合包囲軍も「どうせ早々に降伏するでしょ!食べ物なくなっちゃうし」と考え、積極的に攻めることはせず包囲を継続。

ところが、この籠城戦はなんと半年間も続いたのです。名将・綱成氏の備えは尋常ではありませんでした。

北条戦隊「北条五色備」

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当時の北条家には、「北条五色備(ほうじょうごしきぞなえ)」という5つの部隊が存在しました。各部隊のリーダーは、北条家の中でも偉い役職の「五家老衆」が務めていたそうです。

北条五色備には、部隊ごとに黄・赤・青・白・黒のカラーが割り振られていました。河越城に籠城した綱成氏はイエローです。

綱成氏は「地黄八幡(じきはちまん)」という旗指物(戦中に鎧の背中にさす小さな旗)を使っていたといわれています。

氏康くん、援軍として8千人を連れてくる(全然足りない!)

河越城の戦いの開幕とほぼ同時期のこと。

連合包囲軍は駿河の今川義元とも手を組み、駿河の北条氏を攻撃しました。

おかげで北条氏は駿河も河越も大ピンチです。そこで、氏康くんは今川氏に譲歩する形でとりあえず和睦。河越での戦に集中できる態勢を整えます。

氏康くんは絶賛ピンチ中の河越城に援軍を送りました。その数、8千人です。相手は8万人なので、まったく足りていません。

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しかも、氏康くんの軍はどういうわけかロクに戦おうとしませんでした。連合包囲軍が攻撃を仕掛けても氏康軍は逃げるばかり。

連合包囲軍は「氏康くんもずいぶん腑抜けたなぁ!」と勝利を確信します。

氏康くんの作戦通りの展開です。

そして河越夜戦へ…

連合包囲軍が河越城を囲ってから半年が経った1546年4月(旧暦)。連合包囲軍はすでにグダグダな空気になっていました。風紀も乱れていたようです。

そんな中、ついに綱成氏が動き出します。

兵たちは防具を脱いで身軽になり、味方の目印となる白い布を腕に巻き付け、真夜中に連合包囲軍へ突撃!完全に舐めきっていた相手から奇襲を受けた連合包囲軍はパニックに陥ります。

そして、扇谷上杉氏の当主が戦死。綱成氏のイエロー軍は、古河公方の陣に「勝った勝った!」と叫びながら攻撃をしかけ、勝利します。

これにより、連合包囲軍はバラバラになりました。大量の兵を失った管領・上杉氏も撤退を余儀なくされる事態に。

氏康くんの暴走

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とても良い戦況でした。しかし、ここでまさかの氏康くんが暴走!

血の気の多い氏康くんはもはや虫の息の上杉勢を追い回し、深入りしようとします。

そんな氏康くんを後ろから見ていた北条戦隊のブラック・多目元忠氏は、ほら貝を吹かせて氏康くんを制止。

こうして河越夜戦は幕を閉じました。

氏康くんは後に「無敗の最強武将」と呼ばれる男です。

奇襲の結果

連合包囲軍からは、1万3千~1万6千人の死傷者が出たといわれています。

対する北条軍の兵の数は、城兵3千+救援8千=合計1万1千人。

もちろん北条軍もノーダメージではありませんでしたが、致命的な打撃は受けませんでした。

河越夜戦、その後

河越夜戦で当主や重役を失った扇谷上杉氏は滅亡。

古河公方北条氏から養子を迎えて、公方の役職を譲ることになりました。

管領・上杉氏は比較的元気でしたが、綱成氏の追撃などに遭い、長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに身を寄せることに。

一方、北条氏はこの一戦により、関東での確固たる地位と河越城をゲットしました。

北条氏は河越城の大工事を実施。「河越衆」と呼ばれる大道寺氏により、三の丸や八幡郭が拡張され、西方面への防備も強化されました。

川越城(河越城)についてはコチラ

関東七名城のひとつ、川越城本丸御殿。東日本唯一の本丸御殿遺構探索

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河越夜戦の史跡、東明寺

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河越夜戦の舞台となったのは、川越の観光エリアから少し外れた場所にある東明寺でした。

川越城(本丸御殿)からはかなり離れています(本丸御殿は右下の緑色のエリア)。

東明寺は今でこそそれほど大きなお寺ではありませんが、当時は広大な寺領を有していました。

東明寺がある「志多町(したまち)」は、かつて東明寺の境内だった場所が町になったエリアです。昔は「下町」と呼ばれていました。

東明寺の境内には「川越夜戦の碑」も

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東明寺の境内には、川越市指定史跡である「川越夜戦の碑」や、将兵の遺骸を納めた富士塚があります。

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境内で偶然会った猫。

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静かでゆっくりとした時が流れている場所です。境内には様々な植物が植わっているので、ぜひそちらにも目を向けてみてください。

松本清張「黒い空」に登場する河越夜戦

松本清張の長編ミステリー作品「黒い空」の舞台は川越市周辺です。物語は、東明寺の境内で「講師」が河越夜戦について語るシーンから始まります。

講師のセリフは長い上に小難しいので、読んでいると心が折れそうになりますが、ここはしっかりと理解しておいてください。作中で起こる殺人事件の鍵は、この講師のセリフの中にあります。

ちなみに、「北条氏の籠城中、連合包囲軍はどこを活動拠点にしていたのか?まさか半年間も野営していたなんてことはないでしょう」という話題が出たとき、講師は以下のように説明していました。

「わたくしが思いますに、市内元町の養寿院でしょう。扇谷上杉軍はこの東明寺です。このとき東明寺は兵火に遇い、焼け落ちました。古河公方軍の陣営は喜多院だったと思います。(以下、略)

そして、これは余談ですが、先ほど登場した「河越夜戦の碑」は、作中で「『川越夜戦』じゃなくて『河越夜戦』じゃないの?」と突っ込まれていました。

門内に入ると、せまい境内に「川越夜戦之碑」と石の記念碑が立っている。ほんらいなら、「河越夜戦」としなければなるまい。

河越夜戦に興味がある方は、ぜひ「黒い空」も読んでみてくださいね。

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富築(水先)

富築(水先)

埼玉県と美味しいもの・可愛いものが大好きなwebライター。川越在住。
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