喜多院の境内にあるものの、ほとんど人気の無い仙波東照宮。でも、歴史的には結構貴重なスポットなんです。
仙波東照宮とは
日光・久能山と並ぶ、日本三大東照宮の1つです。
元和2年(1616年)に徳川家康公が没し、その遺骸を久能山(静岡)から日光(栃木)に移送する際、一行は喜多院に4日間留まり、家康公の供養を行いました。
法要は、家康公の信任が厚かった天海僧正によって営まれたそうです。
天海僧正: 喜多院第27世住職。 徳川家康公から大変信頼されており、顧問的な存在でした。 家康公の没後は、秀忠公、家光公に仕えていました。 |
そのことから、寛永10年(1633年)には喜多院の境内に立派な東照宮が創建されました。
しかし、そのわずか5年後の寛永15年(1638年)。
「寛永の大火」という大火事によって、東照宮や喜多院、中院、南院、城下町の大半が焼失してしまったのです。
3代将軍徳川家光公は直ちに寺院の再建を命じました。
現在の仙波東照宮は、寛永17年(1640)に再建されたものです。
仙波東照宮の入り口である随身門(ずいしんもん)から最深部の本殿まで、全てが国の重要文化財に指定されています。
アクセス
境内の散策
住宅街の隙間にナチュラルに存在していますが、国の重要文化財です。
随身門。
大昔は、後水尾天皇の御染筆「東照宮大権現」の額が掲げられていたそうです。
石鳥居も国の重要文化財です。
寛永15年の再建時に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱には「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれています。
石鳥居の先には、ちょっと長い階段が待っています。
階段の途中から撮影。結構急です。
階段を登りきると葵の家紋があります。大河ドラマで毎週見ていたあのマークです。
拝幣殿に着きました。
仙波東照宮の本殿は、さらにこの奥にあります。
重要文化財の平唐門(ひらからもん)と瑞垣(みずがき)。
石灯籠は歴代の川越城主が奉納したもので、松平信綱や柳沢吉保などの名が刻まれています。
そして、奥に見える建物が本殿です。
本殿には木造の徳川家康公像が祀られているらしいのですが、残念なことに一般人はこれ以上中に進むことは出来ません。
ごく稀に拝殿の内部を公開している時もありますが、それでも本殿には近づけません。
喜多院・中院・南院(廃寺)、そして仙波東照宮の関係
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かつて喜多院周辺の寺院は、喜多院(北院)・中院・南院の三支院で構成されていました。
当初、中院は現在の仙波東照宮の位置にありました。
しかし徳川家康公の死後、喜多院境内に仙波東照宮を創建するため、中院は現在の場所に移転したのです。
南院は明治初頭に廃寺となりました。
現在は「南院跡地」として、石碑や石仏が雑然と置かれているだけです。
跡地の看板には「明治二年神仏分離令蒙(?)余波」とあり、明治2年に起きた神仏分離令による、廃仏毀釈運動の影響で廃寺となったことが読み取れます。
神仏分離:神道と仏教との区別を明確するための宗教政策。 廃仏毀釈運動:神仏分離による、寺院・仏像・仏具の破戒運動。 |
思わず素通りしそうな跡地ですが、ここには確かに南院があったのです。
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