なぜリピーターが多いのか筆者ですら分からないこのコーナー。
第6回はついに最終回。これまでの総集編です。
第1回~第5回までの各記事から、筆者の印象に残っている同名地域をまとめました。
大手町
「大手町」という地名は、かつて城郭の大手門があったとされる地域でよく見られます。
東京都 千代田区
東京駅の近くにある渋沢栄一像です。すぐそばに日本銀行 本店があります。
川越市
川越のシンボル「時の鐘」の近くです。この道をまっすぐ進んだ先に川越城本丸御殿があります。
ただし、途中に丁字路があるため、ただ直進するだけでは城に到達できません。城下町ならではの構造ですね。
幸町
幸町(さいわいちょう、さいわいまち)も全国的に見られる地名です。
東京都 板橋区
板橋区のさいわい通り沿い。住宅が多い地域です。
川越市
1918年に建てられた埼玉りそな銀行川越支店蔵の街出張所(旧埼玉りそな銀行川越支店)。建物は国の登録有形文化財に指定されています。
現在はATMのみ設置されていますが、20年6月19日までは有人店舗でした。
氷川町
東京都板橋区にある氷川町(ひかわまち)の地名は、町域にある氷川神社に由来しています。
一方、川越市の氷川神社は氷川町(ひかわちょう)にはありません。神社の住所は川越市宮下町で、氷川町は神社の裏手にあります。
東京都 板橋区
氷川町氷川神社の境内です。
すぐそばに板橋区立氷川つり堀公園があり、ウグイやフナ、ザリガニなどを釣ることができます。
川越市
川越氷川神社の裏手。橋を渡った先に神社があります。
富士見町
「富士見」は関東・中部地方に多い地名です。名前の通り、「富士山(もしくは各地の郷土富士)が見える場所」を意味しています。
東京都 千代田区
かつて富士山をよく見通せたと言われている富士見坂。現在は高い建物が密集しているため、富士山を見ることはできません。
こちらは江東区の東京ゲートブリッジ。都内ではレアな富士山ビュースポットです。上のストリートビューを拡大していくと、橋脚ごしに富士山が見えてきます。
川越市
川越市の富士見町にある仙波浅間神社。
浅間神社は富士山信仰の神社です。霊峰・富士への参拝が困難な人々のために建てられたと言われています。
▼ 仙波浅間神社で毎年行われる伝統行事「初山(はつやま)」
-
-
仙波浅間神社 初山祭り 江戸時代から続く、小江戸川越の習わし
続きを見る
末広町
東京都千代田区の外神田3丁目の辺りは、かつて末広町と呼ばれていました。
東京都 千代田区
東京メトロ銀座線「末広町駅」の近くです。秋葉原のメインストリートの辺りですね。
江戸時代、この辺りには武家屋敷や商人・職人の家があったと言われています。
川越市
妙養寺(みょうようじ)の境内です。鎌倉時代中期に創建したと言われています。
武家門(ぶけもん)の山門が印象的。
連雀町
東京都千代田区の須田町1丁目と淡路町は、かつて「連尺町」と呼ばれていました。江戸時代初期、連尺(れんじゃく、物を背負うときに利用する荷縄)を作る職人が多く住んでいたためです。
江戸時代の行商はこの連尺に荷物を担ぎ、各地を往来していたと言われています。その様子が渡り鳥に似ていたことから、彼らは「連雀商人」や「連雀衆」と呼ばれていました。
本来、「連雀」とは渡り鳥の雀のことを指します。しかし、時代の流れとともに「連雀」は「連尺」の同義語へと変化していき、江戸の連尺町にも「連雀町」の字があてられました。
現在、群馬県高崎市と埼玉県川越市、静岡県掛川市・浜松市、愛知県岡崎市には、「連尺」「連雀」「連尺町」と呼ばれる地域があります。いずれも江戸時代に城があったエリアです。
城下町を訪れた行商が荷物入りの連尺を下ろし、そこに店を出したことが地名の由来であると言われています。
なお、東京都三鷹市内にも「連雀」を含む地名が見られますが、これは行商とは関係ありません。千代田区の連雀町で起きた明暦大火(1657年)で家を失った住民たちが移り住んだことに由来しています。
東京都 千代田区
神田淡路町2丁目8番地付近。かつて「連雀町」と呼ばれていた地域です。
関東大震災後の区画整備により現在の町名に変わりました。
川越市
川越の人気観光スポットのひとつでもある川越熊野神社。開運・縁結び・厄除けの神社です。
毎年12月3日には、非常に多くの人で賑わう「川越酉の市(大鷲神社)」を開催。商売繁盛などにご利益があるとされる豪華絢爛な熊手が境内を彩ります。
-
-
川越熊野神社の酉の市 熊手の粋な買い方をマスターしてゲン担ぎ!
続きを見る
新宿
「新宿」といえば東京都新宿区をイメージする人が多いかと思いますが、実は「新宿」と呼ばれる地域は全国各地に存在します。
「宿(しゅく)が生まれた場所」を意味するケースが多いようです。
※宿(しゅく):私設の宿泊施設。宿泊機能のみならず、商工・歓楽機能など、都市的機能も兼ね備えていたとされる。
東京都 新宿区
新宿御苑の旧御凉亭(台湾閣)。
江戸時代、現在の新宿御苑一帯には「内藤新宿」という宿場町がありました。信濃高遠藩・内藤家の土地にある下屋敷跡に「新しく作られた宿」だったことから、このような地名になったと言われています。
「新宿」は、この内藤新宿を簡略化したものです。
川越市 新宿町(あらじゅくまち)
公共施設のウェスタ川越と、ショッピングセンターのウニクス川越です。
東京の新宿区が音読み+音読みであるのに対し、川越の新宿町は湯桶読みですね。ちなみに東京都葛飾区にも新宿がありますが、こちらはまた違う湯桶パターンで「にいじゅく」と読みます。
大塚
東京・大塚の地名は古墳に由来していると言われています。1629年には、すでに大塚という地名が存在していたそうです。
東京都 文京区
文京区の富士神社古墳。大塚駅の周辺(文京区内)には他にも古墳があります。
川越市
南大塚古墳群のひとつ、山王塚古墳。ちょっと珍しい上円下方墳です。
1958年(昭和33年)に川越市指定史跡に指定されました。
熊野町
東京・熊野町の地名は、町域にある城山熊野神社に由来しています。
一方、川越の熊野町には熊野神社はありません。現在は地図に跡地が記されているだけです。
ちなみに、先ほど登場した川越熊野神社も熊野町にはありません。同神社の住所は連雀町です。
東京都 板橋区
板橋区志村村の城山熊野神社。かつてこの場所には、志村城の二の丸があったそうです。
川越市
川越・熊野町の熊野神社跡地。
諏訪町
昭和50年頃まで、現在の高田馬場1丁目と西早稲田2丁目の西半分のエリアは諏訪町と呼ばれていました。
地名は町域にある諏訪神社に由来しています。徳川家の鷹狩と深いつながりを持つ神社です。
川越市内にも諏訪町と諏訪神社は存在しますが、残念ながら諏訪神社がある場所は諏訪町ではありません。同神社は諏訪町の近くの藤間という地域にあります。
東京都 新宿区
弘仁年間(810~824年)に創建としたとされる諏訪神社。
源氏や徳川氏の崇敬も得た由緒ある神社です。
川越市
川越市立高階南小学校の裏側。実はこの場所に諏訪神社の月極駐車場があります。諏訪神社までは徒歩10分ほど。
藤間諏訪神社
川越市藤間にある藤間諏訪神社。
創建は定かではありませんが、神社誌には慶長17年(1612年)と記載されているようです。しかし、それ以前から「藤間大明神」として現在の場所に祀られていたと言われています。
摂末社は、神明社・熊野神社・天神社・稲荷社・八坂社の5社。明治政府の命令により、それまでバラバラの場所にあった5つの神社が藤間諏訪神社の境内に移転してきたものだそうです。
(それは摂末社なのか?という疑問はありますが……)
現在でも元の神社が建っていた場所には、石標が残されています。下のストリートビューは元・神明社の石標。
また、上で取り上げた熊野町の熊野神社跡も、この移転に関連しているものと思われます。
かすみがせき
東京と川越の同名地域として何かとクローズアップされがちな「かすみがせき」。すごく細かいことですが、実は以下のような表記上の違いがあります。
- 東京:地名は「霞が関」。駅名は「霞ケ関駅」。
- 川越:地名は「霞ケ関」。駅名は「霞ヶ関駅」。
「が」と「ケ」やら、「ヶ」が小書きだったり小書きではなかったり……。複雑ですね。
ただ、すべての文章が必ずしもこの表記に則っているとは限りません。例えば毎日新聞ではどちらの駅名も「霞ケ関駅」で統一していますし※、川越市の公式サイトも「霞ケ関駅」と表記しているケースが多いようです。
※毎日新聞では、そもそも小書きの「ヶ」が使われません。
東京都 千代田区
霞ケ関駅の前です。
東京都港区にある霞が関の由来は、古代にまでさかのぼります。日本武尊(やまとたけるのみこと)が武蔵国に設置した“雲霞(うんか)を隔てた遠方を望める関所”「霞ヶ関」から、その名が付けられたそうです。
すでに江戸時代の頃には、現在の霞が関エリアは「霞ヶ関」と呼ばれていました。
川越市
霞ヶ関駅前のロータリーです。
同駅の周辺地域は、明治時代に行われた町村制の施行時に霞ヶ関村となりました。村の名前の由来は、かつて鎌倉街道にあったとされる「霞ヶ関」から。
駅ができた当初は、川越藩の的場(弓矢の練習場)があったため「的場駅」と命名されました。しかし、1929年にゴルフ場の霞ヶ関カンツリー倶楽部ができたことにより、駅名が霞ヶ関駅に改められたそうです。
ちなみに、東京の霞ケ関駅は1958年に開業しました。つまり、川越の霞ヶ関駅の方が先輩ということです。
地名の由来について
本記事では様々なエリアの地名の由来についてご紹介してきましたが、これらはいずれも諸説あります。また今後、歴史的な発見により、新しい説が登場する可能性も否めません。
本記事で取り上げている説は、「こんな話もあったんだな」という程度に解釈していただけますと幸いです。