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河越館跡史跡公園から始める河越氏の遺構巡り

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東武東上線「霞ヶ関駅」から徒歩15分、蔵造りの街から車で15分ほどのところにある、河越館跡史跡公園。かつてこの場所には、武蔵国で勢力を誇っていた武士、河越氏の居館があったといわれています。

河越館跡(かわごえやかたあと)とは

河越館跡は、かつて関東地方で有力な武士だった河越氏の居館跡です。
河越氏は、平安時代から南北朝時代にかけて活躍していたといわれています。

昭和59年12月6日に国指定史跡となり、平成21年には館跡の恒久的な保存を図りつつ、地域の人々の憩いの場とするため、史跡公園として整備されました。

史跡整備は発掘や調査の成果に応じて段階的に進めることになっており、現在(2018年1月)はまだ途中段階にあります。

アクセス

東武東上線「霞ヶ関駅」より徒歩14分。
東武東上線「鶴ヶ島駅」北口・JR川越線「西川越駅」から川越シャトルバス(13系統)「上戸」下車 徒歩6分。

河越館のイメージ図


(史跡公園内 展示資料より)

上は、発掘調査の結果と当時の絵画資料などを元に描かれた川越館のイメージ図です。
上が西で下が東、右が北で左が南になっています。
東側にある水域は入間川です。

(1)の塀に囲まれた区画には、掘立て柱建物(2)や井戸(3)、塚(4)などがあり、河越氏の屋敷区画の一部だったと考えられています。
道を挟んだ向かい側にある(7)の区画には、墓域があったようです。
また、その北側にも(8)の区画が存在していたと見られています。

発掘調査では、主屋となる建物は見つかっていないそうですが、入間川寄りの場所に遺構や遺物の集中する場所(9)があったと想定されています。

南側にある建物(10)は、河越氏の持仏堂から発展した常楽寺です。

当時、入間川は水運で重要な役割を果たしており、また西方には鎌倉街道も通過していたことから、水陸の交通の要衝としても機能していた河越館。
様々な物資や情報が集まりやすい立地だったことから、河越氏が衰退した後も、寺域や戦の陣所として利用され続けました。

河越氏とは


(史跡公園内 展示資料より)

「河越氏」といわれても、多くの人にとってはあまり馴染みのない名前かもしれません。
簡単にまとめると、次のような家系でした。

  • 桓武平氏(かんむへいし)流の秩父氏を祖とする名族。
  • 平安時代末期~南北朝時代まで活躍していた。
  • 平氏・源氏・北条氏・足利氏と仲が良かった。
  • 最盛期には、河越重頼の娘が源義経の正妻に選ばれた(郷御前)。
  • 鎌倉時代の中期まで、留守所惣検校職(るすどころそうけんぎょうし)という在庁職を認められていた。

早い話が、「娘を源義経の正妻にできるくらい、力を持っている家だった」のです。

鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」にも、

頼朝の仰せにより重頼の息女が義経に嫁ぐ為に三十数名の家臣ともに上洛

と記述されています。

そんな有力武士だった河越氏ですが、1368年(応安元年)、平一揆を組織したことをきっかけに幕府と対立。
河越館での戦に敗れ、表舞台から姿を消してしまったのです。

その後、館のあった土地は常楽寺(じょうらくじ)の寺域になりました。

河越館跡の歴史は4つの時代に分けられる

現在、史跡公園内でその形跡が見られるのは主に1期と3期です。

1期:河越氏の時代(12世紀後半~1368年)


(出典:Wikipedia かわらけ投げ

発掘調査では、儀式や酒宴で使い捨てにされた素焼きの器「かわらけ」や、中国から輸入された青白磁の梅瓶(めいぴん)といった生活に根ざしたものの他にも、平一揆による兵火によるものと思われる、火を受けた跡の残る軒丸瓦(のきまるがわら)や磁器などが発見されています。

2期:常楽寺の時代(14世紀後半~15世紀後半)

河越氏の持仏堂が起源といわれている常楽寺は、河越氏の衰退後にその寺域を広げました。
史跡公園として未整備の区域で多くの遺構が検出されており、板碑や石塔、茶道具、仏具などが出土しています。

3期:山内(やまのうち)上杉氏の時代(15世紀末~1505年)

扇谷(おうぎがや)上杉氏の居城、河越氏を攻略するため、山内上杉氏(顕定~憲房の辺り)が陣所を構えていた時代です。
この時代の遺構は特に多く残っており、大きな掘や方形竪穴(ほうけいたてあな)などが検出されていることから、陣所設置のため常楽寺の寺域を整理する際、堀や井戸に板碑などを破棄したのではないかと考えられています。

また、山内上杉氏に関わる遺跡でよく見られる「山内かわらけ」も数多く出土しています。

4期:大道寺(だいどうじ)氏の時代(16世紀中期~1590年)

3期の山内上杉氏以後については、遺構や遺物が少なく、また文献資料もほとんど残っていないため、発掘調査だけではこの時期の状況を明らかにすることは難しいとされています。
しかし、河越城を拠点としていた小田原北条氏の重臣、大道寺政繋の墓所が常楽寺内にあることから、大道寺氏が陣所としてこの場所を整備したのでは、という説があるようです。

河越館跡史跡公園内を散策

河越館跡史跡公園は、整備済み区域と未整備区域の2つに分かれています。


未整備区域の入り口。
とても広くて障害物などもほとんどないため、犬を自由に走り回らせている人もいました。


このまま道に沿って歩いていくと、整備済み区域への入り口に着きます。
右手側に見える建物が常楽寺です。


整備済み区域の入り口。


公園内には東屋や

ベンチ、トイレなどがあります。
ここでお弁当を食べている人や、ちょっとした運動をしている人もいました。

河越茶のある入り口


整備済み区域への出入り口はもう1つあり、こちら側には河越茶(現在の狭山茶)が植わっています。
奥に見えるのは、川越市立上戸小学校。


河越茶が初めて文献に記述されたのは、南北朝時代(14世紀中頃)に成立したとされる「異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)」です。
この書物は南北朝時代の初学者向けの教科書で、「武蔵河越」は全国の銘茶5場のひとつとして紹介されています。

河越館跡では茶臼や風炉といった茶道具が発掘されており、館でもよく茶を飲んでいたのでは、といわれているようです。

2つの時代の堀

河越館跡には、主に2つの時代の堀が残っています。

1つは13世紀頃に造られた河越氏時代の堀(上は堀8号跡)、そしてもう一方は15世紀末~16世紀初頭頃に造られた山内上杉氏時代のもの(堀23・26・27・28号跡)です。
整備時には2つの堀を区別するため、山内上杉氏時代の堀跡が舗装されました。


この8号堀跡はとても長く、上戸小学校の敷地内にまで続いていたそうです。


堀の外周にある、4~5メートル幅の道路跡。
それぞれの区画の間を道路で連結するのが、河越館の空間利用の特色だったとされています。


上の堀から少し離れたところにある堀1号跡。
13世紀頃、河越氏の時代に造られたものと考えられています。


16世紀頃に造られた堀が重複していた場所。
拡張工事や堀直しを何度も行った痕跡が残っていたそうです。


(史跡公園内 展示資料より)

そのため、この場所には河越氏時代に造られた堀跡(8号堀跡)はわずかな痕跡を残すのみで、確認できない部分も少なくありません。
しかし裏を返せば、これは河越氏の衰退後も、この土地が大いに活用されていたという証でもあります。

塚状遺構(39号溝跡)

発掘調査によると、深さ1.3メートルほどの溝が正方形を描くように並んでおり、溝の中からは10~20センチ程度の礫が見つかったそうです。
その中には、蔵骨器として使われていたと思われる壺や捏ね鉢もあったことから、この場所は盛り土に礫を葺いた塚状の遺構だったのではといわれています。

発掘された時には、既に盛り土が削られ平らになっていたため、塚の上に何が置かれていたのか、そもそも物が置かれていたのかどうかすら、今となっては分かりません。
しかし、その配置を考慮すると、河越氏の屋敷の隅に造られた、先祖を祀る霊廟や納骨堂など、宗教的な要素を持った何らかの施設だったのではないかとする説が有力です。

また、出土した遺物に時代的な幅があることから、長い期間に渡り追葬などが行われていたものと見られています。

井戸跡

13世紀後半~14世紀頃に造られたという井戸。
当時、武蔵国では素掘りの井戸が主流で、この井戸のように板材を組み合わせて造られたものは希だったようです。


井戸跡の内側。
当たり前ですが、埋め立てられていました。

建物跡

8号堀区画で見つかった唯一の建物跡。
13世紀後半~14世紀頃に造られたものと考えられています。

整備時に、柱の位置にプレートが敷かれ、壁のラインはコンクリートによって固められました。

東西に長い建物だったのではと考えられていますが、そのほとんどが上戸小学校の敷地内(フェンスの向こう側)へと続くため、正確な規模は不明のままです。

8号堀区画の中央付近に位置するこの建物は、屋根を支える柱の間に床板を支える束柱(つかばしら)を持ち、また柱を安定させるため、柱穴に根石(ねいし)を使っていることから、この区画の中心的な建物であった可能性があります。

河越重頼の供養塔は常楽寺に、墓所は養寿院に

重頼の供養塔のある常楽寺

河越館跡に隣接している常楽寺。
元々は河越館にあった持仏堂ですが、鎌倉時代に常楽寺と名を改め、現在に至っています。


本堂。
とても大きいです。


本堂の一部に「河越山」の文字が。

河越太郎重頼・京姫・源義経の三供養塔。
これは06年11月19日に建てられたもので、悲運の生涯を終えた義経とその正室・京姫(郷御前)、そして京姫の父で有力な板東武者だった河越太郎重頼を偲ぶものです。

真ん中が重頼、右に義経、左に京姫の供養塔が並びます。

かつて川越には京姫を供養する「京塚」がありましたが、宅地開発により潰されてしまいました。
その後、NHKの大河ドラマ「義経」が放送されたことや、06年が重頼没後820年であったことなどから、供養塔建立の話が持ち上がったそうです。

除幕式当日には、『義経正室「京姫」里帰り810年祭』が開催され、3人に扮した仮装行列が練り歩きました。

アクセス

重頼の墓がある養寿院

ガイドブックなどではあまり取り上げられませんが、曹洞宗の立派なお寺です。

重頼の墓は、本堂の脇を奥に進んだ先にあります。

源頼朝から疎まれ、圧力をかけられていた義経と京姫。
この2人が娘と共に自刃したことはよく知られていますが、実は重頼も「義経の正妻である京姫の父親だから」という理由で領地を没収され、死罪となっています。

現代では「何だかなぁ・・・」という考え方ですが、大河ドラマなどを見ていると、当時は当たり前の処遇だったのかもしれません。

アクセス

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